長崎県 端島 軍艦島
長崎半島から西に約4.5km、三菱石炭鉱業の主力炭鉱であった高島から南西に
約2.5km、長崎港から南西に約19kmの沖合いに位置する「端島(はしま)」。
端島は、南北に約480m、東西に約160m、周囲約1200mという小さな海底炭鉱
の島で、岸壁が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並ぶその姿が三菱重工長崎
造船所で建造の戦艦・「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。
炭鉱閉山後、長い眠りについていた「端島」ですが、2014年1月29日に世界文化
遺産に推薦された「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の構成資産
の一つとして、また新しい歴史を刻もうとしています。
端島の歴史
端島では、1810年(文化7年)頃に石炭が発見され、佐賀藩が小規模な採炭を行ってい
ましたが、1890年(明治23年)三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭坑として操業
が開始されました。
出炭量が増加するにつれ人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年(大正
5年)には日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅が建設され、最盛期には約5,30
0人もの人びとが住み、当時の東京都の9倍もの人口密度にまで達しました。
エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで、出炭も人口も
徐々に減少し、1974年1月(昭和49年1月)に閉山した後は、同年4月に無人島になりました。
総合事務所
鉱山の中枢であったレンガ造りの建物です。総合事務所の中には、炭鉱マンのための大き
な共同浴場がありました。浴槽はいつも真っ黒だったそうです。この周辺には多くの建物が
ありましたが、現在ではその殆どが崩壊しています。
端島神社
危険と隣り合わせの鉱員たちにとって、神社は心の拠り所であり、毎年4月3日の山神祭
は全島を挙げて盛大に行われました。神殿の下に拝殿もありましたが、倒壊してしまい、
現在は祠のみが残っています。
第二竪坑坑口桟橋跡
主力坑だった第二竪坑を含め、鉱山施設は、現在ほとんど崩壊していますが、かろうじて
第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残っています。
貯炭ベルトコンベアー
精炭(精選された石炭)は、このベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に
積み込まれました。今はその支柱がのこるのみです。
端島小中学校
1893年(明治26年)、三菱社立尋常小学校が岩礁の上に設立されましたが、1921年(大正
10年)に町立となり、校舎は現在地に移設されました。1958年(昭和33年)に建設された
現存の建物は7階建てで、1階から4階までがが小学校、5階と7階が中学校、6階には講堂、
図書館、音楽室、7階には理科室などの特別教室が設けられていました。1970年(昭和45年)
には体育館や給食設備なども新設され、給食を運ぶ島で唯一のエレベーターもありました。
端島病院・隔離病棟
1958年(昭和33年)完成。命がけで採炭に励む鉱員やその家族の健康を守ってくれる病院の
存在は、端島に住む人々にとって、さぞ心強かったことでしょう。
30号棟・31号棟アパート
1916(大正5年)に建てられた30号アパートは、日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層
アパートといわれています。鉱員社宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、
地下には売店もありました。31号棟鉱員社宅には、地階に一般用の共同浴場があり、1階には
郵便局や理髪店も設置されていました。
プール
1958年(昭和33年)完成。それまでは、小中学校の前にありましたが、台風で大破したため
移転建設されました。25メートルプールと幼児用プールが併設されましたが、海水を使って
いました。65号棟屋上の幼稚園にもプールがありましたが、こちらは完成した1952年(昭和
27年)当初から水道水を使っていました。
建物名、建物の建設年代、構造・階数、住居戸数
端島神社:1936年(昭和11年)、木造1階
職員住宅:1950年(昭和26年)、RC造3階、20戸、幹部用、風呂付
30号棟アパート:1916年(大正5年) RC造7階、140戸、旧鉱員(下請社宅)
31号棟アパート:1957年(昭和37年)、RC造6階、51戸、地下共同浴場・郵便局(1階)・鉱員社宅
65号鉱員社宅:1945年(昭和20年)~1958年(昭和33年)、RC造10階、317戸、屋上幼稚園
端島病院:1958年(昭和33年)、RC4階
端島小中学校:1958年(昭和33年)、RC造7階
RC:Reinforced Concrete(鉄筋コンクリート造)
(説明文は軍艦島パンフレットから抜粋・転載させていただきました)
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