南アフリカ共和国 ヨハネスブルグ 動物保護区 
ここに掲載の写真は、1970年代に南アフリカ共和国・ヨハネスブルグを訪れた際に、
フイルムカメラで撮ったものです。
南アフリカ共和国
面積:122万平方キロメートル(日本の約3.2倍)
人口:約1900万人(1969年)、約5200万(2010年)
首都:プレトリア
人種:
(1969年、人種区分)
黒人:(68%)、白人:(19%)、カラード(多くはオランダからの初期移民と現地の黒人の
混血):(19%)、アジア系(殆どがインド人):(3%)
(2010年)
黒人(79%)、白人(9.6%)、カラード(混血)(8.9%)、アジア系(2.5%)
宗教:
キリスト教(人口の約80%)、ヒンズー教、イスラム教
1886年にここで金が発見されると、一攫千金をねらう移民が流れ込み、ゴールドラッシュ
に沸いた。以後、南アフリカは金とダイヤモンドの国として、現在まで続いている。
ヨハネスブルグ
南アフリカの北部にある最大の都市。(海抜1800m)
黄金の大鉱脈の上に築かれた都会であり、地下4000mの深さまで金が詰まっている。
産出量は世界の年産額の約70%。宝石用ダイヤモンドの産出量も世界一。(1969年)
現在の金産出量は、採掘坑道の長大化などによるコスト増で、世界第4位となっている。
人口:約130万人(1969年)、約430万人(2011年)
写真は高層ビルが立ち並び、二階建てバスが走る1970年代のヨハネスブルグの中心街。
この街を訪れた頃は、アパルトヘイト統治時代で、市内は白人居住区と黒人居住区に
分断され、黒人の白人居住区への立ち入りは厳しく制限されていた。
路線バス、ビルのエレベーター、救急車も白人用と黒人用が別で、また公園のベンチにも
「European Only」の表示があり、黒人はベンチに座ることができなかった。

アパルトヘイト撤廃後、ヨハネスブルグは、ゴーストタウンと化し、世界で最も治安の悪い
犯罪都市の一つといわれている。
(2010年FIFAワールドカップ時にも、TVでよく紹介されたました)
動物保護区
ヨハネスブルグ中心部から北西へ車で約1時間ところで、南アでは比較的小さな動物保護区。
周囲を金網に囲まれた入り口から車で入り、果てしなく広がる広い草原に、エランドやダチョウ
の群れを楽しみながら、更に強固な金網に囲まれたエリアへ車を乗り入れ、ライオンの群れを
至近距離から見物できました。

アパルトヘイト(人種隔離政策)(1948~1991)
南アフリカ共和国の全人口の19%を占める白人が残り81%の非白人を人種に基ずいて
差別した政策で、アフリカーンズ語で「隔離」・「分離」の意味。
第二次世界大戦においては、政治的な主導権はイギリス系が握っていたが、1948年に
オランダ系の国民党が政権を握り、アパルトヘイトをすすめた。
人類の分類:白人(イギリス系、オランダ系)、カラード(白人と先住民族との混血)、アジア人
(インド系、マレー系が主)、黒人
非白人を国土の不毛な土地に移住させる法律(原住民土地法)や人種の異なる男女の
結婚を禁止する法律(異人種間の結婚禁止法)などが打ち出された。
日本人の「名誉白人」としての地位は、1961年、南アの国会で、当時の内務大臣が
「居住地に関する限り白人並みに扱う」と声明を出したのに始まる。白人専用のホテル、
レストランの使用が許されたのはそれ以来である。ただしこれは一種の黙認であり、
法律で身分が保障されているわけではない。日本との貿易高を増やすための便宜的
な政策に過ぎず、南アにおける永住権や財産の取得は許されていない。
南アの輸出先(1968年):英国(666万ドル)、日本(286万ドル)、米国(146万ドル)、
西独(141万ドル)
(「南ア共和国の内幕」/最後の白人要塞  伊藤正孝著 1971、中央新書 より)

1991年アパルトヘイトの撤廃 1994年全人種参加型選挙によるマンデラ政権の発足。
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