スライドショー・クロアチア ドブロヴニク デジカメ写真

クロアチア共和国 ドブロヴニク旧市街 
クロアチア共和国 
面積:約56000ku(九州の約1.5倍)
人口:約450万人
首都:ザグレブ
宗教:ローマ・カトリックが88%、そのほかセルビア正教など
ドブロヴニク旧市街
クロアチアの最南端に位置するドブロヴニクは、13世紀にラグーサ共和国という都市国家
を形成し地中海交易の拠点として栄え、「アドリア海の真珠」と呼ばれるほど美しい街に発展。
1667年の大地震で街は破壊。また近年(1991)では、ユーゴスラヴィア内戦の中で街は破壊
したが、内戦終結から3年後、街は元通りに修復・復元された。
ピレ門
旧市街の西側にあり、数世紀にわたってメインの入口として使われていた。
門の現在の姿になったのは1537年。
オノフリオ大噴水
ナポリのオノフリオ・デッラ・カヴァが1438年に造った大噴水。12km離れた源泉から水を
引き、市内の2ヶ所に噴水が設けられた。
フランシスコ会修道院
高い鐘楼とどっしりした外壁が特徴の建物。内部にはクロアチア最古の薬局があり、
現在も営業中。
プラツァ通り
西のピレ門と東のルジャ広場の200mほどを結ぶ街のメインストリート。
通りの両側には、カフェや銀行、みやげ物店などが並んでいる。
ルジャ広場
プラツァ通りの東端、旧市街の中心にある美しい広場。広場の東側に立つ高さ31m
の鐘楼は、1444年に完成したもの。壁面には時計が備わっており、毎正時と30分
ごとに鐘が鳴らされる。
ローラント像
広場の中心に立つ柱のたもとの騎士像。これは、ヨーロッパヨーロッパ都市の自由と
独立の象徴とされる伝説の騎士ローラントの像。1418年に造られたもので、この像
の右腕の肘から手首までの長さ51.2cmが商取引の際に使う長さの基準されていた。
聖ヴラホ協会
街の守護聖人、聖ヴラホを祀る教会。かつてはこの場所にロマネスク様式の教会
が立っていたが地震で大きく損傷し、のちに火災で焼け落ちたため1715年に新た
にバロック様式で再建された。
大聖堂
1667年の震災後に再建されたバロック様式の建物。
旧総督邸
ラグーサ共和国の総督が住んでいた邸宅。住居であると同時に、執務室や裁判所、
評議会、行政府などが置かれていた政治の中枢だった。
スポンザ宮殿
ルジャ広場の北面に立ち、かつては税関や保税倉庫が置かれていた。1520年ころ
に建てられたものでゴシックとルネサンスの特徴を併せもつ。現在は公文書館として
使われており、12世紀からの文書が保管されている。
旧港
かつての海洋国家ドブロヴニクの交易を支えた港。南北を要塞に囲まれており、ここを
拠点に多くの交易船が往来していた。現在は観光ボートの発着所として賑わっている。

(上記の説明文はガイドブックより抜粋・転載)
クロアチア・ドブロヴニク旧市街(世界文化遺産・1979年、1994年)
1991年のユーゴスラビア内戦で街が破壊され、ユネスコの危機遺産リストに載せられ
たが、内戦終結から3年後の1998年に全てを修復・復元し、危機遺産から脱した。
内戦
1944年、ソ連との共同戦線でユーゴスラヴィアの首都ベオグラード(現セルビア共和国
の首都)を開放したバルチザン(抵抗軍)のチトー将軍は、翌45年に「ユーゴスラヴィア
社会主義連邦共和国」(構成共和国:スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、
セルビア、モンテネグロ、マケドニア)を建国。初代大統領となった。
1980年にチトーが死去すると、連邦は再びセルビア集権体制になり、各共和国に不満
が蓄積することとなる。
クロアチアは、89年から始まった「東欧革命」の機運にのり、91年6月に独立を宣言。
国内に残るクロアチアの独立を望まないセルビア系住民を排除する動きに出ると
セルビアを中心とするユーゴスラヴィア連邦軍との紛争に突入した。
セルビア系の住民は連邦軍の支持を得て「ウクライナ・セルビア人共和国」の建国を宣言。
スラヴォニア地方(中部クロアチア)やダルマチア地方(南部クロアチア)では激しい戦闘
が繰り広げられ、ドブロヴニクといった沿岸部の美しい町も銃弾の雨にさらされた。
95年8月にクロアチアが展開した「嵐作戦」により、ウクライナ・セルビア人共和国は消滅。
この後結ばれたデイトン和平合意によってクロアチア独立戦争は終結した。
(ガイドブックより転載・一部加筆)

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