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広島城
広島城は、太田川河口の三角州に、毛利輝元が築いた典型的な平城です。
城地の選定と築城
毛利氏は、南北朝時代から郡山城を居城とする一領主でしたが、元就の代に
中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。
後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第(京都の大邸宅、聚楽邸ともいわ
れる)・大阪城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する
城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州
に城地を定め、天正17年(1589年)4月15日鍬入式を行いました。築城工事は
穂田元清(元就の子)・二宮就辰(輝元の側近)を普請奉行として急ピッチで進め
られ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。
明治以降の広島城
廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になく
なりました。
特に明治7年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿等も焼失し、大天守、中・
裏御門、二の丸等を残すのみとなってしまいました。そして昭和20年(1945年)
8月6日、原子爆弾により天守閣をはじめ城内の建物は全て壊滅しました。
現在の天守閣は、同33年(1953年)に外観を復元(鉄筋コンクリート)して建造され
たもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。
(広島城パンフレットより抜粋・転載させていただきました)

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